買取をレポート
ペルシャ湾沿岸のパーレーンに本拠のあるアラブ資本の金融会社〈I社〉もそんな企業の一つだ。
青息吐息の企業に資金を注入して倒産から救い、その後株を市場に売るというのが彼らのやり口だともっぱらの噂だ。
この会社はあのアメリカの大宝石会社〈ティフアニー〉を買収して注目を集めたこともある。
グッチ一族の崩壊M氏とD氏の助けを借りて、I氏は一億三五〇〇万ドルでグッチの資本の半分を手にする。
つまりM氏の持株以外全部ということだ。
その後の四年間、それでも状況は悪くなる一方で、損失はますます増加した。
I氏の忍耐も限界に近づく。
トップの首を落とさなくてはならない。
一九九四年、止めの一撃だ。
一億七五〇〇万ドルで、グッチ家最後のメンバー、M氏が荷物をまとめて座を明け渡す。
すべてが終わった。
もはやグッチにグッチ家の人間は一人もいない。
D氏の時代を告げる鐘が鳴った。
この年、CEO(社長兼最高経営責任者)の肩書きをもって、D氏はイタリアに帰国する。
ぼろ屑と化したあの皮革製品のメゾンの亡骸をなんとか拾い集めるためだ。
I氏は五〇〇〇万ドルを起爆剤として注入したが、すぐに結果を出すこと、そして目に見えるかたちでの経済効果を要求していた。
D氏は、ミラノのスカラ座のすぐ近くにM氏が建てた宮殿のような豪著な館を閉め、フィレンツェ郊外のカゼリーナの店に引っこむ。
そこはかつてあの偉大なグッチオが最初の工房を建てた場所だった。
物語はこれで終わらなかった。
一年後の九五年、一族はさらなる運命の打撃を受ける。
M氏が四六歳の若さで、ミラノ支社のすぐ近くで銃弾を浴びて殺された。
下手人は、M氏の別れた妻Pさんに雇われた殺し屋たちだった。
このような三文悲劇を背景に、新生グッチは再出発をはかったのだった。
フランスから買い手になりそうな男が現われ、この男はもったいぶって、五〇〇〇万ドルの値下げを要求する。
この男はA氏という人物で、LVMHの会長だ。
LVMHでは、全員がこの買収に乗り気だった。
とくに熱心だったのがヴィトンの社長I氏だったが、決定権は会長にある。
る。
しかし、I氏は二億ドルでグッチを売りに出す。
「すべてを白紙に戻す。
グッチ・ブランドは死んだ」賭けてもいい。
今ごろA氏はこの決定を苦々しい気持ちで思い出しているにちがいない。
なにしろ、現在グッチは当時の五〇倍の価値があるのだから。
引き取り手が見つからないため、I氏はニューヨークとアムステルダムの証券取引所にグッチの株式を上場することを決意する|!これはグループのその後の波欄万丈な歴史に大きな意味をもつことになる。
新規公募(公開公募)の直前、D氏は将来の保証のために、二つの子防策をとる。
彼はI氏という唯一の株主によってだけ構成された理事会の場で、多額の増資を承認させる。
そしてその後、監査役会の委員を一人ひとり任命した。
監査役たちは全員その地位をD氏のおかげで、まさにD氏だけのおかげで得たのだった。
仕組みは完璧だった。
D氏は「ダブルG」を良質のブランドとして復活させようとしていた。
そのため、極東に生産部門を移すことを主張する人たちの言葉に耳を貸さず、イタリアにある工房をそのままにして閉鎖しなかった。
彼は意味のないライセンスを一つひとつ排除していき、そして最も勝負できるものを取り戻した。
こうして彼は、グッチの時計を製造している〈グッチ・タイムピース〉を買い戻すことができた。
価格については慎重に検討された。
H社よりはるかに安く、シャネルのすぐ下ぐらい。
緑と赤の帯に、二つのGのロゴをあしらったビニール張りのバッグは製造中止になった。
あまりにも世界じゅうでコピーが出回り、ブランドにとって足棚となってきたのだ。
こうした大手術の結果はすぐに表われた。
一九九五年の上半期には、利益は前年比で五倍増となった。
D氏は資金を大量に広報・宣伝活動に投入した。
同時に、彼は情報交換のシステムを合理化し、直営店の数を増やした。
ひと言で言えば、そうじゅうかんD氏の手元にすべての操縦梓がおかれ、全権が握られている。
そしてこれが彼に期待されていたことだった。
しかし、D氏はその実権を一人では握らなかった。
すぐに彼は、一九九〇年にグッチにやってきたテキサス出身の若者に膨大な責任を負わせることにする。
この若者は当初、婦人既製服の製造の責任者、その後製造部門全体の責任者になっていた。
この人物こそT氏で、彼はグッチ一族の破滅を現場で目撃していた。
それにM氏がD氏に敗北した最後の戦いは直接彼に関係している。
M氏はやわらかな曲線と茶色を好む。
F氏の幾何学的なラインと黒への情熱は、M氏にとってあまりにも前衛的すぎた。
M氏はF氏の解雇を要求した。
しかしD氏が強く抵抗したのだった。
新規公募(公開公募)一会社が一般投資家に対して、株式を初めて売り出すこと。
将来性のある会社の新規公募の場合、その株式には投資家の人気が集まり、高値がつくことから、既存株主は多額の売却益を得られることが多い。
「私は生まれながらにして、年寄りで、野心家で独裁者でした」とは有名な発言である。
M氏が別れた妻の企みによって暗殺され、グッチが再び震婚する一年前の一九九四年、F氏はグッチのクリエイティヴ・ディレクターになる。
当時まだ彼は「クリエイティヴ・独裁者」とは呼ばれていない。
しかし、彼の個性を崇拝するルールはすでに存在していた。
厳格な規律が敷かれていた。
黒と黒、なんでも黒だ。
男たちは美しく、体格がよく、ファッショナブルでなくてはならなT氏は、誰もが認めるように美しい男だ。
男性も女性も彼を美しいと思う。
グッチの株主、銀行家たちも彼をとても美しいと思っている。
それは納得できる。
製造をマーケティング、販売促進、そして広報の下に位置づけ、芸術を製品に従属させることで、彼は確かにC氏を殺したかもしれないが、彼らの富を築いた。
この高級品業界の超人の運命は、我々の関心をしばしとどめるに充分に値する。
彼は一九六一年、テキサスのオースティンで生まれた。
しかし、青少年時代のほとんどをニューメキシコのサンタ・フェで過ごしている。
彼の公式の履歴やインタビューを信じるなら、というのも彼のインタビューや資料はあまりにも乏しく、いつも同じものが引用されているからだ。
彼は若いころから秩序、規律、制服を好み、また彼自身とても九帳面だということに気づく。
八歳のころ、ほかの子供たちがフットボールをしているときに、自分の人生設計を細部にいたるまで詳しく描き、自分がほかの子供たちと「違う」ことを自覚する。
ニューヨークに出て、ニューヨーク大学で美術史を専攻、その後建築科に転向し、そしてパーソン・スクール・オブ・デザインで学ぶ。
この学校はパリにもつながりがあり、T氏はパリで学業を終える。
卒業前の研修を広報担当補佐として受ける。
卒業証書を得ると、ニューヨークに戻り、ファッションの世界に入る。
T氏はまず〈キャシー・ハードウィック〉に入り、そして〈ペリー・エリス〉で制作責任者になる。
一九九〇年、T氏は〈グッチ・アメリカ〉に採用され、すぐミラノに派遣される。
まだ三〇歳にもなっていなかった。
ここからT氏の冒険が始まる。
どちらかというと最初はあまり順調とは言えなかった。
入った会社グッチは傾きかけている。
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